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11.08.07 バンフ・マウンテン・フィルムフェスティバルの試写会に行ってきたよ [本や映画、音]

「Banff」って書かれたり「BMFF」って省略されることが多いけど、ここでは話し言葉の「バンフ」で統一しよう。
8月3日、2011年の「バンフ・マウンテン・フィルムフェスティバル」のプレス向け試写会に行ってきた。この「バンフ」がどういうものなのかは、こっちを見てみて。とてもていねいにまとめてあるから、僕が話すよりもずっと分かりやすいと思う。

 BANFF Mountain Film Festival in Japan 2011

本チャンの「バンフ」は「A プログラム」と「Bプログラム」あわせて10本の作品で構成されてるんだけど。今回の試写会ではそのうち6本が上映された。だからその6本についてどういう作品だったかを書いてみようと思うよ。特にメモをとったりしてるわけじゃないから、主人公とか場所の名前や、あらすじに記憶の間違いがあるかもしれない。その場合はまぁ、大目に見てやって。




■Eastern Rises(イースタン・ライズ)


【あらすじ】
小さな頃から釣りに取り憑かれてきたフランクとライアン。アラスカの大自然の中でフィッシングガイドをしたりしたけど、最終的な夢はカムチャッカだった。そこは未だに人の入らない川があり、まるで100年前のアラスカがそのまま残っている。狙うのは90センチを越える巨大なニジマス。「ウンジャ」あるいは「ホッグ・ジョンソン」と呼ばれる川の主に巡り会うため、彼らは巨大な蚊や仲間のいびき、旧ロシアのポンコツヘリコプターなんかに悩まされながら未開の地へと踏み入っていく。

【感想】
 ひと言で言えば「小学30年生の釣り紀行」。こどもの頃からの夢をそのままに、はしゃぐキモチを抱えたまま大人になった。そんな無邪気な男たちの釣りの旅だ。これは見ててとても気持ちがいい。なにしろ同類の男たちが嬉しそうにしてる映像なのだ。仲間だ!って思えるし、オレもこんなとこ行きてぇ〜!って素直に興奮できる。
 驚いたのは釣り方。フライなんだけど、模してるのは虫じゃなくてネズミ。なんと実際、魚の腹を割いてみると中からはネズミや鳥が出てくる。相手にしてるのは虫を食べる魚じゃなくて、肉食の水棲生物だ! ってことで自作のネズミフライをキャスト。しかも下流に向かって投げて、上流に巻き上げていく。そう、この肉食水棲生物は流れに逆らって泳ぐ獲物を捕らえるようなパワフルな魚なのだ! で、釣り上げるのは75cmのニジマス。それでも「こんなのホッグ・ジョンソンじゃない」ってがっかり。75cmってのはちょっとした大人の足の長さだからね。それがまだまだだっていうんだから目指すゴールがすごい。
 最終的にはとても美しい風景の中、ちょっとしたお遊びと感動的な言葉でストーリーは幕を閉じる。
「釣りは社会の役に立たないけれど、心を豊かにしてくれる。役に立たないことをやるために、おれたちはここにいるんだよ」
ってことばが印象的だった。すべての小学30年生たちに捧げたい釣キチムービー。


■The Swiss Machine(スイス・マシーン)


【あらすじ】
 ウエリ・シュテックはスピードクライマーだ。単独でヒマラヤやアイガーに挑み、驚くほどの短時間で頂上をおとしてきた。
「他の連中が出発の準備をしている間に、ウエリはもう頂上にいる」
 といわれるほど。そのスピードを支えているのはたゆまぬトレーニングだ。山を駆け、自らを律する。そして登る時には正確なリズムで着実に前に進む。ウエリはマシーンだ。スイス製の時計のように正確。そして、信頼性に長けている。
 映画の仲でウエリは二度目のアイガーに挑む。かつてメスナーが10時間で登った山を、一度目の挑戦でウエリは3時間50分しかかからなかった。その時点で世界最速。けれどそれは
「自分の限界ではなかった。ただ人より早かっただけだ」
と語る。いったいウエリはどこまで自分を追い詰めることができるのか。標高差2,500mをソロでスピードクライム。スイスマシーンが究極のタイムアタックに挑む。

【感想】
 なぜソロのスピードクライムにこだわるのか。そのメリットとデメリットを丁寧に描くなど、ドキュメンタリーとしての構成がとてもしっかりしてる。
 途中、映像ではヨセミテのエルキャピタンを舞台にアレックスという若手クライマーとの心の交流を描くんだけどね。口数が少ないから言葉も交わさず、交わしても英語を母国語としないからトンチンカン(ウエリのスポンサーのことでおもしろいやりとりがあるよ)。だけど、登り始めると言葉は要らない。こうしてウエリが何に重きをいて、彼の人生の中で何が大事なのかが分かってくるよ。ウエリはストイックな求道者なのだ。求めるものがハッキリしている。ムダをそぎ落とす姿勢は修行僧のようだけれど、アレックスとの交流を描いたことでウエリに血の通った優しい面があることが分かる。ただ記録を追いかけるんじゃなく、自分のやりたいことを最後までやり通したいんだってことが分かる。
 映像的には最後のアイガーがすごい。1,000mもの落差をソロフリーで登る。その落差感は身がすくむ思いだし。空撮は上下の感覚が分からなくなるから見ているこっちが落ちているような錯覚につながる。ラスト、日の当たる山々をバックに稜線を登るウエリ。正確なリズムでどんどん高度を上げていく姿は、まさにマシーンだ。ラストの感動的なシーンはどうやって撮ったんだろう?


■Life Cycles(ライフ・サイクルズ)


【あらすじ】
自転車を作る工場のテクニカルでゴシックな映像。その工場から産み出される、人類の発明の中でもっとも崇高な乗り物「自転車」。森の中を駆け下りるダウンヒルバイクの迫力あるシーンは季節の移り変わりとともに映し出され、畑の中でのトリックライドがエモーショナルな編集で展開される。祖父の言葉を軸に、自転車の奥深さをスローモーションでドラマチックに語った美しい映画。バンフのために特別に編集されたショートバージョン。

【感想】
 オープニングの工場は、まるで映画「ターミネーター」のような重厚感と圧倒的な存在感に溢れてる。溶ける金属、飛び散る火花、切削油を溢れさせながら穴を開けるドリル。そこから一気に森の中へ。細いトレイルを絶妙のバランスでつなぎ、飛び、ターンし、加速していく。ちょっとこの映像だけで自転車乗りたいな〜って思う人も多いんじゃないだろうか。とにかく映像がカッコいい。けれど、なんとなく物語としてのまとまりは甘い気がする。そのあたりの回答は「deeper」にあったような気がするけど。


■deeper(ディーパー)


【あらすじ】
deeperの中からアラスカパートだけを抜き出したもの。これまで45本以上ものスノーボードムービーに関わってきたジェレミー・ジョーンズが、アラスカの壁のような斜度の山に挑む。

【感想】
 正直に言うと、一番残念な作品だった。ってのは僕らスノーボーダーは「deeper」のフルバージョンを見てる。だからジェレミー・ジョーンズがどういう人だか知ってるし、ザビエル・デ・ラ・ルーがどれほどヤバいライダーなのかを知ってる。彼らがなぜ自分たちの足で、誰もいないようなエリアに踏み入って、あんな斜度の山を滑るのか、を知ってる。けれど今回の「バンフ バージョン」ではそのあたりが上手く伝わってこなかった。たとえばジェレミーがスプリットボードという登攀具を選ぶ理由や、ザビエルの山に対する経験なんかがもうちょっと見えてくればおもしろかっただろうな。
 あとはフィンガーになってる斜面をおりてくるヘルメットカメラの映像。あれはもう滑ってるんじゃなくて、おりてる。いや、落ちるのを止めてる。怖さや迫力はあるけど、滑る気持ちよさみたいなものは感じられなくて。その意味でも彼らがなぜあの山に登って、何に価値を見出して、何に快感を覚えてあの斜面をおりてくるのかが分かりにくかったと思うよ。
 つまりこれは、ショートバージョン故の未完成感なんじゃないだろうか。だとしたら、先の「Life Cycles」に感じたもの足りなさの原因も納得だね。
 この「バンフ」で触れる作品の中にはショートバージョンがいくつもある。本当に作り手の意図を知りたければ、描かれてる世界に触れたければ、少なくともフルバージョンを見てからにしろ、ってことだと思う。それを実感したことが「deeper」最大の収穫。当然、家に帰って速攻で「deeper」をみたよ。残念なんてカケラも思わないほどサイコーだった!


■SALT(ソルト)


【あらすじ】
 男は毎年、たった独りでその場所にやってくる。文明から隔絶された場所に自転車でやってくる。目的は写真を撮ることだ。
「風景写真は人の心を揺さぶる。そこに行ったこともないのに」
 と語り、8×10の大判カメラを丁寧にセットし、構図を決め、大自然が描き出す絶景を残そうとする。
 撮影旅行でもっとも大きなウェイトを占めるのは待つことだ。インターバルタイマーを仕掛けたカメラが、正確な感覚で風景を切り取る間、男はテントの中に寝転がって事態が変わるのを待つ。変化こそが待ち望んでいるものだ。大自然の劇的な変化を待っている。時々かかってくる衛星電話が撮影旅行のただひとつの変化だ。家族と話し、無事を告げ、撮影の日々に戻っていく。
 やっと訪れた変化は嵐だった。変化ではあったけれど、景色は見えなくなった。
「真っ白だ。何も見えない!」
 と絶望の風の中で叫ぶ。それは自分の人生の中におこった27歳の激的な一年とオーバーラップする。
 嵐を避け、やっとの思いで水分を含んだ塩のぬかるみの中から避難してきた。けれど男はテントの中から雨の降る塩湖を見やる。
「このまま雨が降り続いてしまえばいいのに。そしたらすべてが一変する」
 そうして待ちわびた変化が起こり、激的な風景が広がった。

【感想】
 今回の上映作品の中で一番好きだった。
 男はマレー・フレドリクス。カメラマン。男は変化を求めていた。写真は変化しないものの象徴だ。けれど男はその写真をインターバル撮影で撮りつないで、星空の運行を美しい動画に仕上げる。雲の流れる姿を夢のような動画にしてしまう。日の出を、月の出を、あらゆる変化を撮り、記録することで世界の変化を記録している。変化しないものを重ねることで、美しい変化を描き出す。男は、自身がその美しい変化を捕らえていることに気づいていない。自分がその変化の中にいることを実感していない。
 だから自分は変われないと思い込んでいる。取り憑かれた絶望は孤独をひきよせ、自己否定の深い闇へと導く。その淵に飲み込まれないようにするために、やりきれない思いを抱えて、精巧な作業と忍耐を求める単独の撮影旅行に出かけていく。シンプルで忍耐のいる作業は、サボると結果が出ない。だから、その作業が自己肯定へとつながる。
 見ていて感じたのは、マレーはまるで砂漠のラリーイストのような人だってこと。特にモーターサイクルラリーイスト。何もない空間に自分を置くと、自意識は溶けていく。自意識は境界線を失ってしまう。その感覚に近い。
 そうしてあいまいな自意識の流れていく先に、何かを求めて漂泊するのだ。「Swiss Machine」のウエリとはまた別の、もっと東洋的で切なく哀しく、それでいて無邪気な求道者。
 全体の構成はシンプルだけど、とてもドラマチックだ。目的があり、困難があり、自分との戦いがあり、最後に良いことがある。その良いことが、とてもシンプルなだけに共感も強い。オープニングの映像が、ラストで大きな意味を持つ、という意味でもキャッチーだしね。あの画が撮れた時点で、この映画は完成したも同然。変化は訪れ、旅は終わりの日を迎えた。
 舞台になったのはサウスオーストラリア州のエア湖。干上がった塩の湖。そこで雨をみたいと思ったよ。


■Crossing the Ditch(クロッシング・ザ・ディッチ)


【あらすじ】
 カヤックには親しんできたけれど、あくまで遊びのレベル。しかも海でカヤックに乗ったことはほとんど無い。そんなジェームスとジャスティンの二人の友達同士が思いついた。
「オレたちの住んでるオーストラリアから、ニュージーランドまでカヤックで行こうぜ!」
 オーストラリアとニュージーランドの間は2000キロも離れてる。その海をカヤックで渡りきったヤツなんていない。そんな厳しい海を、自分たちが渡りきれるのか? 物語はまず、二人の若者がさまざまな人たちの協力を得て身体を鍛え、冒険に必要なカヤックを造るところから始まる。
 その準備の途中、同じようにニュージーランドまでカヤックを漕いでいこうとしていたベテラン・カヤッカーに不幸が襲いかかる。ベテランでさえああなら、ひよっこのヤツらには無理に違いない。周りは揶揄し、家族は泣いて心配し、母親は必死に止めた。
 けれど彼らは旅立つ。トレーニングを積み、操船訓練をし、準備は整った。今やひよっこは海の男として成長したのだ。自信に満ちあふれた表情が示すように、旅は素晴らしいものとなった。
 が、困難は冒険の必至事項だ。それはオーストラリアとニュージーランドのちょうど真ん中あたりに待ち構えていた。進むも戻るもできない海のど真ん中。連日の航行による疲れ、予定の遅れ、トラブル、恐怖、心配、ストレス、鮫。さまざまな要因が若い冒険者のキモチをくじこうとする。けれど、若者は叫ぶ。オレたちは負けない! そしてそっとつぶやく。自分独りでは乗り越えられない。あいつがいるからこそ前に進めるんだ、と。
 さぁ漕げ。力の限り! こんな海なんて、ただの「溝(Ditch・ディッチ)」だぜ!!

【感想】
 王道! 友、苦難、挑戦、限界、絶望、家族。すべての要素が詰まった正当派「夏休みの大冒険」。
 「バンフ」の作品は事実を記録したものが多いから、そのほとんどがドキュメンタリーだ。(今回の6本なら、「Life Cycles」以外はすべてドキュメンタリー) その構成の特性上、記録映像の部分とインタビューシーンが主体になる。で、この「Crossing the Ditch」はそのインタビューシーンがすごく良かった。二人の若者のママたちキャラがたってること! 特にジャスティン(だっけ? 黒髪のほうだ)のママの泣き顔は本当に母親の悲しみがよく表れていて、すべての男子に「母ちゃんゴメン!」って言わせるチカラに満ちている。
 冒険そのものの描き方は、もしかすると凡庸なものかもしれない。けれど二人の若者の性格の違いや、それぞれのママの言葉、登場する多くの人物たちが際だっていて飽きさせない。何よりも、二人の主人公が本当に仲良さそうにしてるのがいい。なんせ一人が喋る時、もう一人はずっとしゃべるヤツを見てる。もう、オマエらつきあってるのか?ってくらいに。バカップルじゃねぇか!ってくらいに仲がいい。この仲の良さはほほえましくて、映画全体をただの冒険談ではない、もっと深いものにしたててる。
 ネタバレとかじゃないから言うけど、最後にはハッピーエンドが待ってる。けど、そのハッピー具合がハンパじゃない。ものすごい多幸感に包まれてボロボロ泣いちゃったからね。そんくらいラストシーンとしてはできすぎ。ラストに向かってぐんぐんキモチを高めていく映画。男友達何人かで見て、帰りにビールで乾杯して、友達を持つ幸福感を共有するのがオススメだと思うよ。



 さて、そんな「バンフ」の上映ツアーが以下のスケジュールで開催される。こんなにハイレベルなムービーを立て続けに見れるチャンスなんてそうそうない。詳細は以下に。僕も10月7日の東京で、もう一度上の6本を見直して、まだ見てない4本に触れようと思ってるよ。
 バンフ・マウンテン・フィルムフェスティバル 上映スケジュール
中でも初日にあたる9月10日は乗鞍高原野外特設会場での開催だからね。きっと秋の風が吹いて気持ちいいんだと思う。

チケットはすでに発売中。詳細はこちらへ。
 チケットについて





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10.08.25 「R246」 Akira Tanaka写真展 [本や映画、音]

「それは現場で起きていた。」
「それは一瞬にして現れた。」

「現場」は神戸で開催される写真展のフライヤー。「一瞬」は東京。

僕はTEAM 246がどういうチームなのか知らなかった。
だからいったい現場で何が起きていて、何が一瞬にして現れたのか知りたくて。
いわばキャッチコピーに引かれて、文章のチカラに導かれて写真展に行ってみたわけ。


AKIRA TANAKA氏によるTEAM246の完全密着ドキュメンタリー写真展
R246




100825-1.jpg
「 THE LAST GALLERY」
3-1-11 Shirogane Minato-Ku
Tokyo, Japan, 1080072
+813 5422 9207

白金の町工場が何件か並ぶ裏通りにある。


100825-2.jpg
この看板がないと、絶対分からなかった。


ドアを開けると黒い暗幕。
夜の高架下を感じさせるセットから、反転して白い壁のギャラリーへ。
闇の喧噪から、白色の静寂へ。
そこにはおそらく、300〜400枚くらいの紙焼が虫ピンで展示されてた。モノクロで撮った街の風景と人と、その行為。
カラー写真に焼き込まれた色の流れ。
TEAM 246が何をしてるのかは、ここでは語らない。
ここにあるのはストリートが変化していく様子だ。
現れたもの、現場の様子、街の風景の中に溶け込むもの、浮き上がるもの。
マスク、背中、足もと、シルエット。そして作品。
その行為の性格上、TEAMのメンバーは誰も素顔をさらしていない。

けれど1枚だけ、カメラをまっすぐに見ている視線がある。
何百枚かの中の一枚だけが、こちらを見返してくる。
広くはない部屋の中で、その唯一の視線が印象的だったな。




100825-3.jpg
会場で買ったブックレット。
隅々まで熱が行き届いて濃密。
ゴールテープを切るまでスピードを緩めないランナーのような作り。


写真を撮っているAKIRA TANAKAさんのウェブサイト。
今回の写真展の詳細も。
Akira Tanaka Photography


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10.08.13 「動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか」 by 福岡伸一 [本や映画、音]

僕らは毎日ごはんを食べてる。
人間は食べないと死んじゃうからね。

でもさ。
なぜ食べないと死んじゃうんだろう?

食べ物が栄養になるってどういうコトなんだろう?
僕らが食べたものはカラダの中でどうなっていくのかな?
消化される、栄養になる、身体を作るって、具体的には何が起こってるんだ?
そして、最終的な疑問に辿り着くよ。

生きてるってことはどういうことなんだろう?

福岡伸一さんは分子生物学者で、これまでに「生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)」で生物が生きているとはどういうことなのかを記し、「もう牛を食べても安心か (文春新書)」では牛海綿状脳症(いわゆる狂牛病)の原因とされるプリオンを通じて、病気が種を超えて広がるしくみと、ヒトがタンパク質を摂る理由から生物が生きているという状態を分子レベルで丁寧に解説したよ。
もちろんその他にもたくさんの著書があって、どれもが整理された優れた文章で分かりやすく綴られていく。
個人的には文章のお手本としても注目してるんだけどね。

福岡先生の主張は明快だ。
つまり、生物は身体を作るパーツを手に入れるために食べてる。
食べることで身体の中の分子は、食べたものの分子と瞬時に入れ替わり、古くなった分子は排泄され、食物から手に入れた分子によって構成されたアミノ酸や酵素が身体を作っていく。
生物っていう複雑なシステムは悪くなったり古くなった部分を丸ごと取り替えるっていうやりかたよりも、いわゆる新陳代謝を起こして常に全体をリフレッシュしていくほうが理にかなってるんだって。
そのためには、新しいパーツを供給し続けないといけない。

おもしろいのは、食べたものはそのまま身体のパーツになるんじゃない。
たとえばお肉は体内で直接筋肉や皮膚に置き換わるんじゃなくて、筋肉や皮膚や消化酵素を作りだすことのできるパーツとして吸収されることになる。

この本「動的平衡 -生命はなぜそこに宿るのか-」ではこう説明されるよ。

「消化とは、腹ごなれがいいように食物を小さく砕くことがその機能の本質で決してなく、情報を解体することに本当の意味がある。タンパク質は、消化酵素によって、その構成単位つまりアミノ酸にまで分解されてから吸収される。
 タンパク質が「文章」だとすれば、アミノ酸は文を構成する「アルファベット」に相当する。「I LOVE YOU」という文は、一文字ずつ、I、L、O、V……という具合に分解され、それまで持っていた情報をいったん失う。」
(引用元/「動的平衡」 P67〜68)

たとえばお肉はすでにお肉とかじゃなく、栄養素としてのタンパク質でもなく。
もっと微少なアミノ酸にまで分解されて、はじめて身体に取り込むことができるんだって。
じゃあなぜタンパク質をアミノ酸にまで分解しないといけないのか。
そのシンプルな疑問から、やがて病気に感染しないための生物のシステムや、生命の本質、そして食べ物を摂るっていうことがどういうことなのか、なんかが語られていく。

福岡先生の生命観はとても興味深い。
僕らの身体ってのはしっかりした形があって、明らかに手に触れる実体のあるものだけど。
分子生物学的に見ると、生物っていうのは食べ物を構成していた分子が通り過ぎていく過程でしかないんだって。
この実体がある身体も分子レベルで見れば常に入れ替わって新陳代謝を続けている。
つまり生物の身体っていうのは、来ては去りする分子が一時的に停滞している状態でしかない。
この常に変化し続ける「動的」な「平衡」状態が「生きている」っていうこと。

この感覚はちょっと足もとが揺らぐっていうか。
自分の身体が信用できなくなる感じがするよね。
今、この状態が「動的」な「平衡」状態でしかない、っていうのはにわかに受け入れがたい感覚なんだよね。
つまり、いろんな原稿を書いたり、女の子をデートに誘いたいなって思ったり、スノーボードが楽しかったりする「僕」という生物は、分子の雲の揺らぎの中にしか存在してない。
その分子は動的に、常に入れ替わってる。
それなのに僕は僕としての記憶と自我を保持しつづけている。生きている間はずっと。
身体や神経や脳さえも「動的」な「平衡」状態でしかないとしたら、「僕」の本質はどこにあるんだろう……?

この本は生きてるっていうことを分子レベルで考えて、生命活動が「動的平衡」状態だっていう新しい生命観を与えてくれたよ。
その意味ではものすごくおもしろかった。


あとさ。
“食べ物として身体に入ってきたものは分子レベルにまで細かく砕かれて、身体の中のどこかの細胞を構成する分子として利用され、同時に古くなった分子をつぎつぎに体外に捨ててる”
この考え方は、食べ物に対する短絡的な概念を整理してくれるよ。
たとえば。
この本の中でも、ちょっとだけフードファディズムに関わる考察がなされてる。

よくコラーゲンたっぷりのお料理を食べたらお肌がツルツルになるっていうハナシがあるけど。
あれはあり得ないんだって。
まぁ、難しいハナシを聞かなくても、そんなのはちょっと考えれば分かるよね。
コラーゲンを食べたらコラーゲンになる? もしそうなんだったら、鶏肉を食べたら鶏の筋肉がつくことになるよ。豚を食べたら豚になっちゃう?
もちろん、そうじゃない。
食べたものがそのまんま身体を構成するパーツにはなるわけじゃない。
じゃあどうしてコラーゲンだけは直接コラーゲンになるって思っちゃうんだろう?

たぶん大多数の人はこう思ってる。
「食べたものが直接身体のパーツになるんじゃない。身体の中にコラーゲンをたくさん取り込むと、コラーゲンの原料がたくさん手に入って、結果的にコラーゲンがたくさん作られて、お肌がツルツルになる」って。

ブッブー。
さっき言ったみたいに、食べたものはすべて分子レベルにまで分解されてから、体内に吸収される。


「コラーゲンは、細胞と細胞の間隙を満たすクッションの役割を果たす重要なタンパク質である。肌の張りはコラーゲンが支えてるといってよい。
 ならば、コラーゲンを食べ物として外部からたくさん摂取すれば、衰えがちな肌の張りを取り戻すことができるだろうか。答えは端的に否である。
 食品として摂取されたコラーゲンは消化管内で消化酵素の働きにより、ばらばらのアミノ酸に消化され吸収される。コラーゲンはあまり効率よく消化されないタンパク質である。消化できなかった部分は排泄されてしまう。
 一方、吸収されたアミノ酸は血液に乗って全身に散らばっていく。そこで新しいタンパク質の合成材料になる。しかし、コラーゲン由来のアミノ酸は、必ずしも体内のコラーゲンの原料になるとはならない。むしろほとんどコラーゲンにならないと言ってよい。」
(引用元/「動的平衡」 P76〜77)


お肌にいいコラーゲンも、コエンザイムナントカも、何千円もするサプリメントも。
結局はアミノ酸に分解されて、バラバラのパーツになって別の物に組み立て直されるんだよ。

それは分かっていても、身体にいいって聞くと(ところで身体にいいって、具体的にどういうこと?)、都合のいい考え方に落ちていっちゃう。
これを食べれば健康維持ができるだとか、あれが身体にいいとか、ナントカはダイエットに効くとか。
場合によってはきちんとした研究機関まで持ってる会社が、こういった「食べ物に関わる都市伝説」をあおるような製品を市場にまき散らしている。
ある食品が持つ、ほんの小さな効果を大々的に打ち出して、体調が悪くなるっていう「不安」につけ込んでくる。
虚飾の健康指向と、正しい知識に裏打ちされた食物観。
それを見分ける知識を持てば「コラーゲンでお肌ツルツル」や「身体にいいサプリメント」に何千円も費やすことはなくなるんだけどね {^^}
(お金だけの問題じゃないよ。そのカラフルな錠剤は、いったい何からできてるんだろう?)

なぜ生物は食べないといけないのか。
このことをきちんと理解することは、自分の身体と向き合い、何を食べるべきかを意識することに直結する。
フードファディズムに侵されない強力な支えにもなるしね。

疾病予防やミトコンドリアの働き、そして食べ物を正しく理解するという姿勢まで。
「動的平衡」は分子生物学っていう視点を通して、新しい生命観を体験させてくれた。

科学の冒険書としては、すごく良くできてる。
理科好き男子と、本気で食べ物に気をつかってるアスリートには、是非。







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10.07.23 「トイ・ストーリー 3」を観てきた [本や映画、音]

いや〜〜、楽しかった。
最高!!!!
笑って、ドキドキして、泣いて。
映画がこんなに楽しかったのは久しぶりかも。
あと3回くらい行ってもいいな。


公式サイトはこっちね。
トイ・ストーリー|ディズニー・オフィシャル・ホームページ



ま、正直「1」の時は、お話しは良くできてるけど、やっぱCGには限界あるよな〜って感じだったっしょ?
特に人間の動きね。
おもちゃはもともと無生物だからCGで「動く」こと自体に感動できるけど、生物で動くことが大前提の人間とか犬とかは、CGになると「違和感を感じるほど滑らかな動き」になってた。
そのへんが気になってたんだけどね。

もう〜〜〜やばいよ、今回は!
動き良すぎ。
だってCGのキャラクターが絶望を受け入れて誇り高い最後を迎える、なんていう演技をするんだよ。
生身の役者だってあんなふうに目で語るのは難しいと思う。
それをCGで!
あとね、雨や粉砕されたゴミとか。
あらゆるものの動きが良すぎ。
人間とか、もう人間そのものだったもん。
ピクサーってまたCGアニメのハードルをいっこ上げちゃったなぁって思ったよ。

ウッディやバズもだけど、何あのケンのすり足動き! んでもってわずかな変化で感情表現バッチリな演出。
あのおもちゃで遊んだことのある人たちは、みんな爆笑したでしょ。
だって絶対ああいう動きになるもん!

あとね、途中でバズがちょっと変わったキャラになるのはお話し的にはさほど重要じゃないと思うけど。
もしかしたらアニメーターたちはあのきびきびとした動きをバズにさせる、っていう遊びを楽しんでたんじゃないかな。
ケンのショータイムもそうかも。
必要なんじゃなくて、やって見せたかったんじゃないかなぁ。
そんくらい、動きに関しては「作ってる側の楽しんでる感」がぎゅっと詰まってた。

で、肝心のお話し。
こっちもすごく良くできてる。
例のおもちゃたちが間違って捨てられそうになって、ギリギリ助かったけど、辿り着いたのはイヤな世界。
おもちゃの持ち主アンディが家を出て行くまでに、おもちゃたちはアンディの家に帰らないといけない。
真実を知って家に帰ろうとするウッディ、嫉妬から誤解を認めようとせずに易きに流れる仲間たち。
そうして出会いと冒険と、再会と、絶望がやってくる。

作りとしては実に古典的。
っていうか典型的な「行って、帰る」おハナシ。
前に感想を書いた「ボルト」もそうだけど、映画のストーリーには、この「行って、帰る」がベースになってるものが多いんだよね。
行く時には不可抗力で。そして帰りには何かしらの制限があるけれど、それに間に合うように困難を乗り越えていく。
主人公たちは困難を乗り越えることで人間的に成長し、あらたな物語の出発点に立つ。
これがほとんどの映画の物語の柱。

で、今回、このストーリーは秀逸のラストを迎えるよ。
もうね、登場人物のキャラクターを成立させるにはこれしかない。
「1」や「2」とはそぐわない部分もあるけど、「3」だけに絞ってみれば、この終わり方はすげぇ。
それっくらい良くできたお話し。
そのあたりで大人は完全に泣ける。泣かないまでも、ここで胸がグッと熱くなってくる。
ウッディのキモチ。他のおもちゃたちの嫉妬と羨望、そして期待と愛情。
そういったものが1つになって、ノスタルジックな感動へとつながっていく。
見終わった後も、爽やかな感動を味わえるよ。

ちなみに。僕は3D版を観たんだけど、「トイ・ストーリー 3」に関して言えば、3Dである必要性は感じなかった。2Dでじゅうぶん。DVDが出たら買いたいなぁって思えるよ。
ただし!
前座的に上映される「デイ・アンド・ナイト」っていう短編が、ものすごく良くできてる。
これは3Dのアニメじゃないと表現できない!
「デイ・アンド・ナイト」には絶対にアニメーションと3Dが必要だった。
技術を小手先のギミックとしてじゃなくて、表現手法の1つとして良く理解して取り入れた好例だと思うよ。
だから映画館で観るなら3Dで。
でも本編は後でDVDで見ても家族で楽しめるっていう、3Dと2Dのいいところを上手く組み合わせたプログラムになってる。

途中で吹き出すほど笑えるところもあるし、ツメの跡がつくほど拳を握っちゃうシーンもあるし、びっくりしてイスから飛び上がりそうな場面もある。
映画ってさ、やっぱエンターテイメントなんだよね〜、って芯から楽しめる作品。
マジでオススメ。
男女を問わず、大人は是非!



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10.06.28 FROM YOUTH・門田 祐輔 脱退ライブ [本や映画、音]

FROM YOUTHとはここ数年のおつきあいですが。
アルバムジャケットを撮影させてもらったり、ライブの撮影をさせてもらったり、トラックダウンのスタジオに呼んでもらったり。
つきあい始めたらいきなりディープな方向に直滑降。

そのFROM YOUTHのオリジナルメンバー、ボーカルをとっていた門田(かどた)君が、バンドから抜けました。

大丈夫。
ケンカ別れとかじゃなくて、実に発展的な脱退です。

去る6月27日は、FROM YOUTHのライブでした。
門田君がボーカルをはるのは、これが最後になります。
会場には元FCのビルさんがいたり、『祭』の世話役をやってくれてる親方がいたり。
『祭』に参加してくれてる人たちの顔が見えたり。
スノーボードに関わりのある人たちだけじゃなく、当然のように高円寺辺りを根城にしてるバンドマンたちが詰めかけ、門田君の地元の高知からわざわざ飛行機に乗ってやってきた人もいて。
対バンにはusual O.K.なんかもいたからね。
それはそれは、賑やかなフロアでした。

たぶん、MCの途中で門田君は涙ぐんでたんだと思います。
僕らも門田君が何か言う度に、胸の奥にこみ上げてくるものがありました。
その中で。
僕はこの言葉を聞いて心の底から嫉妬し、羨ましいと思ったんです。
「今日はオレ、何も言わんからな。オレの言いたいことは、ありがとうもさよならも、全部、全部、今日演る曲に込めてあるから」

こんなことを言えるなんて最高だ!
自分の今の感情を、自分の作品で代弁させることができる。
しかもずっと前に作った曲で。
門田祐輔というミュージシャンが、10年もの間いかに芯をブラさずにやってきたか。
そのまっすぐさを思い知らされた瞬間でした。

そして
「今日はアンコールなんて言うなよ!! これで全部。これ以上は演らんから!」
と言い切れる自信。

セットは全部で5曲。

『月光』
『道』
『ユースサイド』
『13』


最後の曲を前にして、門田君は叫びます。
「これで最後。もうオレはFROM YOUTH歌うことないからな! これがほんまに最後。ついて来いよ!」

そう叫んだ5曲目は
『春を待つ人』
でした。

演ったのはすべてオリジナルFROM YOUTHの時代に作ったものばかり。
メンバーの変わったFROM YOUTHで演っても、ライブはどこにも過不足のない見事な仕上がりでした。

『春を待つ人』はFCムービー Part8のエンディングテーマにも使われた曲ですが。
このムービーで僕は初めてエンドロールに自分の名前がクレジットされました。
FCムービーに自分の名前が載る。
その時の誇らしいキモチは、未だに『春を待つ人』を聞く度にわき上がってきます。

一度、FROM YOUTHのインタビューのために練習スタジオに入れてもらったことがあります。
その時、門田君が。
「何か演りますけど、拓郎さん何がいいですか?」
って言ってくれて。いやいやって遠慮してたらイズミ君とマコちゃんが
「どうせ演るんで」「そそ。選んで」
って笑ってくれたことがありました。
じゃあ、っていうんで僕は『ユースサイド』をリクエスト。
吉祥寺のスタジオで、僕は大好きな曲を生で、独り占めするという幸運に浸りました。

僕の本職は物書きです。
言葉を生業とする者として、考えてることを形にする難しさを日々痛感しています。
あるフレーズの中にすっぽりとキレイにはまる言葉を探し当てたときには、アタマの中と書き綴った文章とが直結したような爽快感があります。
けれどそう思えることは少なくて。
たいていはアタマの中にあるイメージをなんとか読んでくれる人と共有したいと思って、イメージそのものではなく、そのイメージをバトンを渡すように伝えてくれる伝令役の言葉を探し、もがき、悩みます。
そうして選び出した言葉を並べても、やっぱりそれは何だか空々しくて。
考えてることを伝えるにはどうしたらいいんだろうと、途方に暮れることがあります。

だからといって。
言葉だけでは伝わらないからといって、そこに何かを足すのは安きに流れすぎだと思っています。
簡単に分かりやすくするためのBGMではなく。
言葉をより輝かせるための音があり、音をより明確に伝えるための言葉がある。
それがかけ算になって訴えかけてくるのは、作り手のキモチです。
FROM YOUTHの歌は、常に言葉と音とがシンクロしていて、心地よい疾走感を楽しませてくれました。
歌い手が、語り手として、自分のキモチを表現する言葉を選び、さらにその感情を際だたせる音を添える。
これが人の心に響かないはずがない。
だからいつも言葉に悩む者として、言葉と音を操る彼らを、心の底からすごいと思ってきました。

残念ながら、もうFROM YOUTHで門田君の声を聞くことはできません。
けれど、幸いなことに僕らにはCDがあります。
セットすれば、いつでも2010年6月27日までのFROM YOUTHを楽しむことができます。
そして、これからは、2010年6月27日以降のFROM YOUTHと、新たな活動をはじめる門田君の歌の、両方を楽しむことができる。
そう思うと、僕らはなんて幸せなんだろうと思います。

言葉を音にのせて歌にしたとき、言葉の重さも、意味も、響きも、美しさも、そこに込められる気持ちも。
すべてが何倍にも広がっていく。
そんな歌の持つ力を思い知りながら、歌い人のチカラに酔い、その船出を祝う。
たくさんの友達とその瞬間に立ち会えたことは、どっしりとした幸福感となって、今もゆっくりと身体全体に染み渡っていくようです。

本当に良い夜だった。


FROM YOUTH 門田 祐輔のメッセージ
「鳩ヶ崎公園電灯の下」

過去にFROM YOUTHについて書いたこと。
09.10.21 FROM YOUTH 新譜「eleki game」


<2010年7月1日・追記>
門田君の脱退とFROM YOUTHのことを、ギターのイズミ君が愛情たっぷりに書いてるよ。
FROMYOUTH DIARY:ありがとうございました。





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10.06.25 「誰が誰に何を言っているの」 by 森 達也 [本や映画、音]

作者の森 達也さんはドキュメンタリー映画を作ってきた人。
オウム真理教を題材にした「A」や「A2」で有名だね。
「いのちの食べかた」や「王様は裸だと言った子供はその後どうなったか」なんて著書で、物事の本質を描き出す作家でもあるよ。
ちょっとネットで検索すれば、森さんの著書はたくさん見つかる。

で、今回読んだのはこれ。



町中にある『防犯カメラ』ってどういう意味なんだろう?
言葉だけのイメージだと、誰かが見守ってくれていて、危ない状況になると助けに来てくれる、っていう印象がある。
けどそうじゃないことは、ちょっと考えれば分かるよね。
実際には誰かが危ない状況になったら助けに行く、んじゃなくて、誰かが面倒なことをしないか監視(リアルタイムの監視もアリだし、映像を記録しておいて後で見直す監視もあるね)してる。

町中で見かける『防犯カメラ』の正体と、そこに書かれてる「防犯カメラ作動中」の意味。
『テロ警戒中』『特別警戒実施中』といった看板は何を訴えようとしてるんだろう?
日常の中に入り込んできてすっかりなじんでしまった「警告」や「注意」を改めて見直してみると、それは違和感の固まりだ。

いつのまにか、僕らは脅かされている。
危ない世の中になった、と。
むごたらしい殺人事件が起こり、少年は凶悪犯罪にはしり、子供は変態の餌食になり、若い女性は通り魔に襲われる。
テロの危険性は常に社会を覆い、明日にもこの国めがけてミサイルが飛んでくるかもしれない、と。

ホントに?

今の日本は世界的に見てもトップクラスに治安のいい国だ。
たとえば殺人事件の発生件数をみても
「2002年度版の犯罪白書によれば、人口10万人あたりの年間における殺人発生数は、アメリカが5.5件でフランスが3.7件、ドイツは3.5件でイギリスは2.9件、そして日本は1.2件だ。(ただし警察庁がまとめる日本の殺人事件には、前述のように予備や未遂に一家心中まで含まれているから、実質は1.2の半分強の数値と推定される)」
(引用元:『誰が誰に何を言っているの』 P35)

さらに。この国の治安は良くなっている。
「2010年1月14日、昨年(2009年)1年間に起きた殺人事件の総認知件数が1097件であったことを、警察庁が発表した。戦後において最も少なかった2007年の1199件をさらに102件下回り、最小記録をまた更新したことになる」
(引用元:『誰が誰に何を言っているの』 P2)

殺人事件は認知件数がいちばん多かった1954年の3081件から、1/3にまで減ってる。
データ上での日本はじゅうぶんに治安が良く、安心して暮らせる国なのだ。
なのに『防犯カメラ』が設置され、いろんな町で『こどもたちを守ろう』としてパトロール隊が作られ、うっかり公園で子どもに近づくと犯罪者扱いされる。

いったいみんな何を恐れているんだろう?
この国は年々安全になっているのに、どうしてそのことが報道されないんだろう?
どうして凶悪犯罪が増えている危険な時代、という印象ばかりが目につくんだろう?
誰が誰に何を思わせたいんだろう?

危機に備える。
それ自体は決して悪いことじゃない。
人間は用心深く、恐がりだからこ、貯えたり、あらかじめ作ったり、用意したりすることができる。
未来に備えて今を生きることができる。
不安や恐怖は、生き残りの準備を促すモチベーションだ。
それが人類の進化や発展を促してきた。

だけど起こりそうもない危機に対して、周到すぎる用意をすることは意味がない。
そんなの当たり前でしょ。
この本の中では「マムシに注意」の例で話されるけど、
僕らは出るぞ出るぞと脅かされてるから、柳の木が幽霊に見えるようになってしまったのかもしれない。
そして、こう言いはじめる。
「用心してしすぎることはない。ホントに幽霊だったらどうするんだ!」
ってね。

凶悪事件は刺激となって視聴率を稼ぎ出し、不安は備えのための保険や携帯電話を買う理由に変わっていく。
そう、周到すぎる用意は、ある種の業界を潤わせることになる。
不安は商売になる。
ダイエットも健康も、抜け毛予防も頑丈な車も。
不安が出発点だ。

そんな社会のからくりを見抜いたとしても。
「ホントに幽霊だったらどうするんだ!」
の声に反論はできない。
だってそれは正論だもの。

正論。正当な理屈。正当な正義。
タダシイイケン。
正しいからこそ、人間はこの「正当」という部分をいいわけにして暴走する。

森さんが恐れているのはこの「正義の暴走」だ。

悲しむ人がこれ以上増えないように、社会全体で警戒する。
用心する。考えられる限りの事態に備える。
そして正義のために、今回だけと例外的措置を執る。
正義のためならしかたないと、法をねじ曲げて解釈する。
みんなのためなら仕方ないと、個人を一斉に攻撃する。
それがある一定方向に向かってしまうと、正しいことのためなら仕方がないのだと、最後の一線を踏み越えてしまう。

巻末、この本が何を言わんとしているのかがハッキリと記されている。

「過剰なセキュリティは不安や恐怖を軽減しない。むしろ増幅する。その帰結として仮想的が生まれ、「やらねばやられる」との大義になる。こうして「愛する人を守るため」の防衛戦争が始まる。」
(引用元:『誰が誰に何を言っているの』 P232)

歴史上、侵略を意図した戦争は希だ。
戦争当事国にしてみれば、その戦争は「やられる前にやらなければならなかった自衛の戦い」であり「大事な人たちを守るために立ち上がった、正義の防衛戦争」なのだ。
なぜなら、人は悪意だけで人殺しはできない。心がじゃまをする。けれど正義や大義があれば、温厚な誰かであっても大量殺人は可能になる。
まず被害者になることが、事態を拡大していくもっとも簡単な方法だから。

この本は日常に溶け込んだ『防犯カメラ』という言葉からはじまって、その裏にある事なかれ主義、商業主義、極端な正義感、過剰な危機意識を描き出し、最終的には戦争の始まるメカニズムへと辿り着くよ。
防犯カメラから戦争? んな大げさな〜〜、って思うかもしれない。
けど。
読み終わると、大げさには感じないだろうな。
たしかに正義が暴走すると怖い。
それを止めることは難しい。
そしてそこに被害者意識がのっかれば、さらに止めることは難しくなる。

過去の戦争を止めることができなかったのはなぜなのか。
今思えば、なぜあれほどバカなことをしたのかと思うけど。
きっとその時、世の中は「被害者意識」にのっとった「正義の暴走」状態にあったんじゃないかな。
それは誰かが何かをすれば止まるってもんじゃない。
その渦の中にいる限り、「セイギハワレニアリ」なんだからね。
止めようとするのは「ヒコクミン」なのだ。

「「自衛戦争だから正しい」との論理に対しては、「すべての戦争は自衛の意識から始まるのだ」と反論するだけでいい。」
(引用元:『誰が誰に何を言っているの』 P192)

とあるように。
僕らは歴史から戦争が起こるメカニズムを学んできたはずだ。

暴走する正義と過剰な用心深さが、やがて疑心暗鬼と被害者意識に変わり、自称「防衛戦争」へと突入していく。
その失敗を繰り返さないために、僕らは最初の一歩を踏み誤らないようにしなければならない。

このセキュリティは現実に照らし合わせて、必要なのか。
これは誰が誰を守るために、何を意図しているのか。
誰が誰に何を言っているのか。

一歩だけ深く考えれば、正義も暴走しないはずだ。
敏感すぎる危機意識は思考停止の事なかれ主義に他ならない。

用心すべきマムシがいるのか、いないのか。
それを見極める賢さこそが、愛する人を守ることに繋がるんだと思う。







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10.06.20 「兵器の常識・非常識」 by 江畑謙介 [本や映画、音]





あれ? 表紙の画像がないね。んじゃ自前のやつを、っと。
100620.jpg

雑学好きなもんで、こういう
「新しいことを知れそうな本」って大好きなんだよね。
いわゆる兵器についての正しい解釈を「常識」として解説し、誤解されている「非常識」として指摘していく。
「知らんかった〜〜〜!」とか「マジ? そうなの??」
ってことがいっぱいあったよ。

この本は上巻で「陸軍」の装備と「海軍」の装備について書いてある。

「陸軍」の章では戦車や自走砲、カノン砲、地雷、機関銃、小銃なんていうのがテーマね。
で、たとえば戦車。
戦車は「どんな地形でも走れるボディに大砲を乗っけた戦闘車両」じゃないんだってね。
その目的は歩兵の支援。
歩兵を支援するために作った戦車は、防弾性能を考えて装甲を厚くしていく方向に進んでいったし、どんどん重くなるのは仕方なかった。
昔はもっぱら活動の場が野原だったから良かったのかもね。
けど、今では市街地での戦闘を考慮しないといけない状況になってきた。
んだけど、めっちゃ重い戦車だと舗装路が割れたり、橋が崩れたりするかもしれない。
戦車といえどもぐちゃぐちゃの不整地を走るより、舗装路を走った方がラクで速いのだ。
ってことになると近代では舗装を壊さない抑えた重量と、市街地の道路を有効に利用できるサイズを備えたコンパクトな戦車が必要になるだろうね。
そう考えたらこの前発表された「一〇式戦車」はかなり理にかなった設計になってるのかも。

陸自ハイテク戦車お披露目 “ヒトマル式”来年配備


個人的には「海軍」の装備がめっちゃ興味深かったよ。
たとえば「軍艦」と「戦艦」はよく混同して使われるけど本が書かれた1998年現在(うわ、12年も前か……)、世界に「戦艦」は一隻もないし、これからも造られないだろう、とかね。
(「軍艦」は軍に属している船のこと。「戦艦」は軍艦の一種で、でかい大砲を備えてる船、って感じ)
続いて巡洋艦とか駆逐艦とかフリゲート艦とかっていう船の種別の定義をしっかり説明。
それから船に航空機を積むメリット。さらには、回転翼機を積む場合と固定翼機を積む場合の違いなどなど。
その他にも洋上艦と潜水艦の特性、船から撃つミサイルの仕組みと揚陸艦のハナシ。
んでもって機雷や、僕の大好きな潜水艦の解説などなど。

去年だったか、自衛隊の護衛艦が関門海峡で貨物船とぶつかっちゃって、船首が大破してた。
あれを見て「自衛隊の船、もろい……」って思っちゃったんだけど。
実は現代の軍艦には装甲板なんてないし、むしろ軽く薄く作ってあるんだって。

なぜなら今や「戦艦」の時代じゃなくなったから。
洋上艦への攻撃は大砲の弾じゃなくて、ミサイルや魚雷が中心。
パワー絶大で、当たったら一撃なんだよね。だから当たったときのことを考えて装甲板を厚くするのは意味がない。
船が重くなって遅くなるしね。
それよりも、当たる前にミサイルは撃ち落とそう。あるいはレーダーやら赤外線やら音やらいろんな策を駆使してミサイルや魚雷の「照準装置」をジャマしよう。んで当たらないようにしよう、っていう考え方。

下巻は「空軍」の装備と「ミサイル」について。

空中偵察や空中給油、ステルス技術や戦闘機の種類などなど。
びっくりしたのは、偵察機ってのはとにかく数がたくさん必要なんだね。
攻撃する前はもちろん、攻撃した後も偵察して作戦の効果を検証しないといけないんだって。
で、必要があればもっかい攻撃、ってことになるらしい。あ〜〜、なんか納得って思った。
あと、輸送機はでかいのばっかりじゃだめで、滑走路の短い空港にも降りれるような小型のモノも必要なんだよ、とかね。
飛行機モノは端から端まで「ほぉ〜〜」って感心しっぱなし。

そんからさ、第二次大戦中にドイツが使ったV2は、正しく言うと「V2ロケット」じゃなくて「V2ミサイル」なんだって。
言葉の定義として「ロケット」に誘導装置、つまり目標にキッチリ当たるような軌道修正装置がついたものが「ミサイル」、ってことらしいけどね。
“んじゃ、どっかの国がロケットを打ち上げたら、それは即、爆弾を積んだミサイルに転用できるじゃん! 宇宙開発って、もろ軍事産業!?” ってことじゃないらしい。
まず燃料の問題が大変だったりするし。
抑止力や反撃用兵器としてミサイルを使おうとしたら、すぐに撃ち返せるクィックなレスポンスがマストでしょ。
だけど液体燃料で飛ぶミサイルだと、燃料の注入に時間がかかっちゃう。数時間とか。
それじゃあダメじゃん、ってことで、ロケット=ミサイルなんてのは誤解の典型、ってハナシがあったりね。

本の中ではミサイルが目標にうまく当たるために、いかに誘導していくかっていうことも詳しく説明されてるよ。
赤外線を使ったり、光学照準だったり、レーザーだったり。
考えられる限りいろいろ。
驚いたのはね、地上攻撃にレーダーは使えないってこと。
空を飛んでるミサイルからレーダー波を放つと、全部地面に当たって戻って来ちゃうからだって。言われて納得!
だからレーダー以外にいろんなことを考えて、なんとかミサイルを目標に当てるようにしてるわけ。
なんだか映画を見てても空対空ミサイルだとか、空対地ミサイルだとか、攻撃目標に合わせてミサイルをとっかえてて。
んなのいいじゃん、撃っちゃえば一緒でしょ!って思ってたけどね。
そこんとこちゃんとやんないと、ミサイルがそもそも目標に当たってくれないってことみたいね。
このへんの技術がかなり細かく書かれてる。
そのミサイルだって、結局は爆弾なんだけどね。
本体のうち、爆弾の部分って3〜5割くらい。あとは飛んだり、軌道修正したりする装置なんだよね。
お届けしたい荷物よりも、包みの方がはるかにデカイ、って感じだった。

写真もたくさん載ってるし、ひとつの話題が4ページくらいで短くまとめられててナイス。
上下刊とも、読み物としてもかなりおもしろいよ。

なんつうか、こういう軍事モノを読んでるとね。
「戦争」「攻撃」「作戦行動」って言葉も素直に読んでいってるし、「標的」「目標」なんて言葉にも違和感は感じない。
けど、その先に何が起こってるかを考えると、ちょっとアンタッチャブルな話題って言うか。
兵器のことなんて語っちゃいけないんじゃないかって気持ちになることがある。
だって「目標」や「標的」の中には人がいるんだよ。

だからって、そっから目を背けるのは違う気がする。
そりゃ世の中に武器なんてひとつもなくなるにこしたことはないよ。
けどね。
そんなお花畑な理想論を掲げるんじゃなくてね。
名前の印象だけで判断しちゃうような短絡的なことじゃなくて、名前が示してるものが何なのか、ってのを知っておくこともムダじゃないと思う。

たとえば僕はこんなことを思った。
イラク戦争の時に、日本の自衛隊がインド洋で補給活動を行ったよね。
当時、ニュースを聞いてるときには、僕は補給で燃料を注ぐってことに何の引っかかりもなかったんだけど。
この本を読んでたら「補給」の意味がよく分かったよ。
補給艦を持ってるっていうのは、遠くまで出かけていって活動する能力があるってこと。
逆に補給艦がないと陸の近くでしか活動できない。
海上自衛隊に補給艦があるっていうのは、それだけ海上自衛隊が長く海上にとどまって活動できる組織だってことを示してる。
それは「国際紛争を解決する手段」として活動するためじゃない。「救助」や「平和維持活動」のために長く海上に留まることができる、っていう意味だ。
そして、世界的に見て外洋で長く活動できる組織や海軍を持っている国は多くはない。
「外洋での補給活動」っていうのは、自衛隊が世界の中でも少ない、一人前の海上活動ができる組織だっていうことを示してたんだね。
そう思ったときに海上自衛隊に誇りを感じたけれど、同時に、初めて海上自衛隊っていう組織は僕が思ってる以上に大きくて力を持ってるんだなって実感した。


知識があれば、何かを考えることができる。
何気ない風景の中にある、もっと深い部分を感じ取れるかもしれない。
沖縄の基地問題や自衛隊のハナシをするときだって、「海兵隊」っていう言葉の意味やその行動内容、実弾演習の意味と価値、発着訓練がなぜ必要なのか、などなど。
きちんと用語や名称。そして実態を理解して報道に接すれば、いまそこで何が起きてるのか、意見を言っている人はどういう立場で何を目的に話しているのか、よりハッキリ分かると思う。

ものすごくシンプルに、おもしろそうだから読み始めたんだけど。
考えるためにはまず、情報が必要なんだな、って思った。
その意味で、おもしろくてためになる本だったよ。






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10.06.14 「暗号解読」by サイモン・シン [本や映画、音]

前回の「フェルマーの最終定理」がおもしろかったので、同じ作者の別の作品を速攻で買った。



「人に知られたくない手紙」を出さざるを得ない人たちがいる。
為政者だったり、軍の司令官だったり、あるいは道ならぬ恋に落ちている人だったり。
そういう場合は懐にそっと隠した手紙を届けたりするんだけど、そんなの見つかっちゃおしまいだ。
だから分かる人にだけ分かる言葉で書き記したりね。
暗号っていうとおどろおどろしいけど、結局は「ヒミツ♥」を共有するってこと。
その秘密を守るために、古今東西、いろんな人たちが知恵を絞って努力して、他の人には理解できないヒミツのことばを編み出してきた。
その様子を綴った暗号の歴史書。

最初に驚くのは、暗号は解読者の方が有利な立場にあるってこと。
だって暗号は作ったら最後、解読することの方が難しいって思ってたんだよ。
だけどそうじゃないらしい。
実際には暗号も人が作ったものだから、何かしらの規則性が潜んでる。
それををきちんと見つけ出してしまえば暗号解読は可能、らしいよ。
その具体的な方法もきちんと開示されてる。
これがまたおもしろいんだけどね。

で、「おまいらの暗号、解けたぜ!」って言うばっかりが能じゃない。
場合によっては意図的に解読してないふりをして敵を安心させて、最終的には大どんでん返しを狙ったりね。
スコットランドのメアリー女王の例がそうなんだけど。
もう、暗号の世界はダークな思惑がぐるんぐるんしてるよ。
歴史の中に埋もれてきた、この化かし合いがちょ〜〜おもしろい。

そうやって暗号がどう使われて、どう解読されていくかを丹念に説明した後、お話しは暗号をのせた「媒体」の話になっていくよ。
ヒミツが紙に書かれた手紙でしかやりとりしない頃にはまだ良かった。
手紙を持ってるやつを引っ捕らえれば手紙は手に入ったし、その暗号を解読するのは時間の問題。
やがて世の中に「電信」つまり「電気信号でお話しするしくみ」ができた。
こりゃ大変だ。
紙も、捕まえるべきヤツもいなくなったんだよね。
とは言え、当初の通信は電線を使った「有線式」。電線を伝わる話を聞くのは、電線自体がどこに張られているかを探り出せばいい。
結局補足の対象が「紙」から「電線」に変化しただけで、狙うは「電線」っていう「媒体」だったわけ。
ところが。
テクノロジーは発達して、電線を使う「電信」から電波を使う「電信」になった。
こりゃもう、陸だろうが海だろうが自在に情報をやりとりできるようになった。しかも文字通り、電線の要らない「無線」だかんね。ちょ〜便利。
陸の司令部が、海に出ている軍艦に情報を送ることもできるようになって、戦争の形態は一気に変化した。
なんだけどね。電波だから。
どこまでも広がっていっちゃうんだよね。
受信機さえあれば、戦争の相手がどんな話をしてるのか、いつどこに攻め込もうとしてるのか簡単に分かっちゃう。
こりゃやべぇってわけで、ますます通信は味方にしか分からない言葉で交わす必要がでてきた。
変革はここで起こったんじゃないかな。
つまり、補足の対象が「媒体」から「情報」へとシフトしたわけだ。
こうして暗号は戦争を背景に、より複雑化していく。

かつてはある太さの棒にテープ状の紙を巻き付けることで記した文字が現れたという原始的な暗号生成。
それが「ヴィジュネル暗号」と呼ばれる、キーワードを使って文字を置き換える方式に進化し、近代暗号の基本になった。
その方式はさらに進化し、第二次大戦中にドイツが開発した「エニグマ」という暗号機は、想像を絶する複雑な暗号を瞬時に生成するまでに至った。
一方、複雑な暗号を作るんじゃなくて、敵側に分からない言語で通信してしまえば、それすなわち暗号なんじゃね?
映画「ウィンドトーカーズ」のモチーフになったように、その部族しか理解しないようなマイナーな言語を話すネイティブアメリカンが通信を担うことで、会話そのものが暗号化されたという史実。

複雑化していった暗号は、一見すると僕らの生活には何の関わりもないように思える。
けどね、クレジットカード情報なんかの一部の情報をのぞいて、メールなんてものは暗号化もされないでそのまんま平文でやりとりされてる。
この本の中では、その情報をスキャンして反政府的だったり、犯罪を示唆するような内容が含まれてるときにはより詳しい調査を行う機関も存在してるっていう指摘があったりね。
(いわゆる『エシュロン』の存在について、だね)
そうなると、僕らのメールのやりとりは誰かにのぞき見されてるのかもしれない。
プライバシー保護のために、ネットを飛び交う通信内容はすべて暗号化されるべきなのか。
それともテロや犯罪を未然に防止するために、一般民間人の暗号化は規制されるべきなのか。
ハナシは個人のプライバシーと社会の安全を担保することはどうバランスさせるべきなのか、にまで及ぶよ。。
んでもって最終的に暗号は、人間の信頼関係と情報の確からしさを検証するツールとしての役割さえ担うことになりそうな気配。

文字を入れ替えたり表を頼りにしたり、鍵を使ったりあれしたりこれしたり。
暗号っていう言葉が想像以上の広がりを持って、ヒミツのお手紙をやりとりする上でどう発展してきたか。
将来的には量子コンピュータが開発されることによって生み出されるであろう、絶対に解けない暗号、などなど。
ヒミツにしたいと思う人たちと、それを知りたいと思う人たちの知恵の攻防を、綿密にたどりながら紐解いていく歴史の物語。

このサイモン・シンって人、ホントに細かく取材していて、複雑な話をていねいにていねいに書いていく。
「フェルマーの最終定理」で出てきた素数という不思議な数の性質を暗号にいかす人たちの話。
そして、数学と暗号の関連性、等々。
前回の「フェルマーの最終定理」でエニグマの話が出てきたのは、こういうことだったんだねぇ。

いやいや、科学ドキュメンタリーとしては一級だと思う。
途中、暗号解読のロジックを使って読み解かれた、失われた古代の文字とそこに記されていた内容のお話しとか出てくる。
ロゼッタストーンがどうやって解読されたのか、なんてストーリーは暗号解読術が人類の宝を掘り起こしたってことなんじゃないかな。
暗号と考古学が交差したりなんかするのって、だいぶワクワクしちゃうよ。

好奇心旺盛な理科系の男子にはマジでおすすめ。





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10.06.04 フェルマーの最終定理 [本や映画、音]

ピタゴラスの定理ってあるっしょ。

直角三角形において、斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しい、ってやつ。
100604-1.jpg
これね。

この式にバッチリはまる数を「ピタゴラスの三つ組み数」っていうんだけど。
たとえば
3・4・5の組み合わせ。
あとは
5・12・13
とか。

ピタゴラス先生の活躍してた紀元前500年頃だと、この三つ組み数は実際に計算してみないと分からなかったから、当てはまる数字を見つけ出すのは大変だったらしいよ。
だからこそ、ドンピシャではまる数字を見つけたときには嬉しかっただろうし、そのハマりぐあいに美しさを感じ取っただろうね。

で、二乗であてはまる数があるんなら三乗や四乗でもいけるんじゃね?
そう思ってピタゴラス先生以下、門下生たちも「三乗の三つ組み数」や「四乗の三つ組み数」を探したんだけど。
なかなか発見できなかった。
なんせ三乗とか四乗だから。こりゃきっとものすごく大きな数字がはまるんじゃね?
そこまではなかなかたどり着けないってことなんじゃね?って話になったんだろうな。

さて。それから2100年くらい経った17世紀。
フランスに、ピエール・ド・フェルマーっていう数学の大天才がいた。
んでもってフェルマーったら変わりもんだからね。
本を読んでて思いついたことがあると、読んでる本の余白にちょちょっと書き付けたりしてた。

フェルマーもこのピタゴラスを定理をいじくってて、感動したんだよね。
だって指数が二乗だと答えは無限にあるのに、三乗にしたとたんなっかなか答えが見つからない。
っていうか、答えがないように見える。
二乗が三乗になっただけなのにね。

で、フェルマーは古代ギリシアの数学者、ディオファントスの「算術」って本を読んでるときに思いついちゃったんだよ。

100604-2.jpg

nが3以上の時には、この数式を満たす整数解はない、って。
なもんだから読んでた「算術」の余白に
「答えはないよ」
って書いたんだよね。
で、そこにはこう添えた。

「私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」
(引用元/新潮文庫『フェルマーの最終定理』P118  サイモン・シン:著 青木 薫:訳)

ちょwwwwww、フェルマー。
それなら他んとこにきちんと書いとけ!って話なんだけど。
フェルマーって人はその証明を世に発表する気なんてなかったみたい。
それが1650年頃の話。

こうして謎が残った。
3以上の自然数nについて
100604-2.jpg

が成り立つ0ではない自然数(x, y, z)の組み合わせは存在しない。

フェルマーはそれを証明したっていうけれど、その証明は正しいのか。
だとしたらその証明はいかなるものか。

これが「フェルマーの最終定理」って呼ばれる数式。
長い間、証明も反駁もされなかった数式だけど、1995年にアンドリュー・ワイルズっていうイギリスの数学者が証明に成功した。
なんとフェルマーが証明したって言ってから350年。
ピタゴラスの定理が生まれてから2500年も経ってる。



この本『フェルマーの最終定理』は、この数式がいかに生み出され、いかに多くの数学者たちを虜にし、苦しめ、そしてアンドリュー・ワイルズがいかにして証明に至ったかの物語。
ピタゴラスの定理を説明する部分では見事な証明と、ピタゴラスを取り巻いていた当時の状況を描き出す歴史的描写。
さらには「ピタゴラスの三つ組み数」や「素数」「完全数」「社交数」「友愛数」なんていう「数」に魅せられた人たちが知識欲を満たす喜びに震え、オイラーやラグランジュといった名だたる天才たちが難問を前に戸惑う様子を記す。
そうしてついにはエニグマの暗号解読に貢献したアラン・チューリングまでもを引き出す広範囲な取材。
さらには複雑な数式をたとえ話でかみくだいて説明する親切さ、などなど。
著者のサイモン・シンは科学系のライターとして活躍する人だって。
いやいやどうして。翻訳の妙も加わって、「フェルマーの最終定理」っていう超ビッグな問題に人類がつぎつぎに挑んでいく様子がサスペンス仕立てで綴られていくよ。
あんまりおもしろくって一気に読んだ。

途中でどうしても難しい話になることはあるけどね。
そこは巻末に補遺があるから大丈夫。
きちんと理解するのに時間がかかるパートもあるけど、理解しながら読まないとその先の感動が味わえない。
一気に読んでも急いで読むのはおすすめしないタイプの本だよ。

ま、ちょっと数学とか好きな人なら巻頭部分のピタゴラスのお話なんてワックワクもんだと思うしね。
だってさ、数字にこんな規則性が隠されてたなんて!
素数の美しさとか、そこんとこだけ何度も読み返してはすげーって言ってニコニコしちゃった。
いや、マジでこれは中学生くらいの時に勉強したかったなぁ。
そしたらこの感動はもっと大きかったと思うよ。

アンドリュー・ワイルズは人間の知識とイマジネーションがどこまで広がるかを「数学」で証明してみせた。
その証明の基礎になった部分には、日本人数学者の谷山豊さんと志村五郎さんによる「谷山・志村予想(当時は予想だったけど、現在は証明済み。だから「谷山・志村の定理」って呼ばれてる)」が大事な役割を果たしてる。
数学の証明は、証明されたことの積み重ね。
つまり先人の仕事が次の世代の礎になる。
フェルマーの最終定理が証明されるには、ピタゴラスの時代から数えて2500年分の学問が必要だったんだね。

なんという壮大なクイズ!





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09.10.21 FROM YOUTH 新譜「eleki game」 [本や映画、音]

ここ2作ほどのアルバム「SOUND OF THE SIGN(サウンド・オブ・ザ・サイン)」のライナーノーツと、ミニアルバム「HAVE A NICE DAY(ハヴ・ア・ナイス・デイ)」のジャケット写真を撮らせてもらったFROM YOUTHのミニアルバムが出ます。

発売は11月11日。タイトルは「eleki game(エレキゲーム)」
091021.jpg

01.door
02.光と影
03.スーパーストライク
04.:the birth
05:Never last days
06:心巡り
PMUS-003/ ¥1,680(tax in)

で、今回もジャケット写真とライナーノーツ、撮らせていただきました。
ジャケット写真はアートディレクターのダイリキから連絡があって、
「ちょっとFROM YOUTHの写真、撮ってもらえんかなぁ」
ってことでスタジオへ。
ダイリキと打ち合わせしてたら、
「ドラマチックで存在感があって、それぞれの個性が出てる顔写真をバンバンと並べたいんですよね〜」
って話になり。
大した機材も用意してなかったんで、その場のものであり合わせ。
結局、高円寺の路上で酔っぱらいや警備員さんなど、さまざまな人から注目されながらのゲリラ的な撮影で乗り切りました。

撮影した本人としては、こんなんで大丈夫なの?って思ってたんだけど。
できあがったジャケットは、ダイリキが言ってたよりも遙かにチカラがあるものになってて。
あ〜、完成型が見えてるってこういうことなのね〜と感心。

音はもちろん、FROM YOUTHスタイル。例によって正直な心を持った人が抱えるアツイメッセージを、今回はこれでもかの勢いで放出。タイトル通り、エレキバリバリ。疾走感たっぷりのスピード仕様。
中でも。
FCムービー パート12「デンジャラスマーチ」のオープニング曲となった「スーパーストライク」はボーカルに来門をフィーチャリング。個性の強いアーティストが加わると、バンドってここまで変わることができるのかと驚かされます。

その他、「デンジャラスマーチ」には佐藤康弘パートには「光と影」、原 祐司パートには「:the birth」がピックアップされてますし。
FCファンはもちろん、日本語パンクが好きな方にはオススメでやんすよ、と。




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